実現する一般意志

能動的な意志表明ではない、ゆるかやかな行動の総和(=一般意志)を吸い上げる、ということをゴールとして、コミュニケーションテクノロジーは発展している、と思っている。
当時は仮定でしかなかった「一般意志」が、googleやfacebookのデータベースに蓄積しつつある。しかし、そこには課題があると思っている。

共感しかない

現代は、「共感」が最も重要視され(いいね!に代表される)ている。
いくら言葉を交わしても、(テクノロジー上でも現実世界でも)つながりを深めるだけで、いかなる行動にも結びつかない。
一般意志の概念が生まれた18世紀と比較しても、現代があまりにも複雑で、人間が主観的に判断できる余地が残されていない。テクノロジーと社会制度が切り開くあまりにも多様な選択肢のなかで、人のもつ時間リソース(80年前後)は相対的に短すぎる。
要は選択肢と情報が多すぎて、答えを自分で決めることが困難なのである。誰もが誰とでも、何とでもコミュニケートできるという状態に、人間は対応できない。

島宇宙

現代まで最も多くの富が流れるのは、「体系化による複雑性の減少」に貢献するものだった。
googleは新しい情報を提供するのではなく、優先順位をつけて、有益な情報だけを表示する、情報量の減少に価値がある。
しかし、それは欲しいところにだけつながりを求める、という島宇宙を作り出した。「共感」できる相手と、「共感」できる事柄を共有してつながりを深めるだけだ。
アーキテクチャ上、つながる相手の選択肢は無限に広がるし、主体の取捨選択ができてしまう。いくら拡散され、体系化されようと、人がアクセス「しようと」する範囲は変わらない。
それでは、「心の動揺」は起きない。welqの終焉は、このムーブメントを表す氷山の一角だ。

ソーシャルグラフ

気持ち同士にも物体とおなじように引力があるとする。ソーシャルグラフアルゴリズムは、エッジとノードによって、これを現した。が、このソーシャルグラフによる繋がりそのものが、共感と承認の輪にとどめている原因の一つではないか。

本来、人はその個人に引き寄せられて結合するわけではない。そこには、必ず「契約」がある。そもそも、社会と結びつくのは、お互いの利害関係をめぐる契約があるからだ。今までのテクノロジーでは、この契約を再現することはできなかった。契約を履行する誰かが生まれた瞬間に、それは全体主義に立ち返ってしまうからだ。

コンテキスト

D-Appsは、この「契約」をプラットフォーム上に実現できる。そして、そこには中心はない。原則として、結合が発生するためには、お互いを理解できる、つまりコンテキスト(con-text)が共有されていないといけない。
ネット上に作られたSNSを見れば、サービスによって求められるcon-textのレベルの高さは異なる。
社会的にコンテキストレベルが低いアメリカがこのあたりを得意としてきた理由がわからないでもない。まあこの辺の議論はされ尽くされているので本でも読んだ方が早い。
コンテキストのフレームは各自が持っているが、それはコンテキストをすでに共有している相手から揺さぶられることがある。これも一種の「心の動揺」と言えるだろう。
例えば、ただの出会い系を「焼肉部」と名打つ。 焼肉を食べに行く、という契約によって人(=エッジ)は結合のチャンスを得る。
情報技術の発展の副次的作用として、コミュニケーションの形態が変化してきた、という事実。
ならば、コミュニケーションの形態の発展が情報技術の発展に寄与することもできるのではないか。なにか強烈なコンテンツがあれば、人は摩擦を乗り越えてコミュニケーションに至る。
思考を整理するために、以下の原則を置こう。

  1. コンテキストを共有するコンテンツを人が認識し合えば、その二者間に引力が生まれる。
  2. その引力は微細なものであり、テクノロジー、制度による摩擦係数を減らす仕組みがないと実際の契約には至らない。

現代のテクノロジーにおいて自動生成でき、かつコンテキストを共有する人を特定できる契約はなにか。
摩擦係数を減らす仕組み、制度はあるのか。その制度自体、D-Appsがあるからこそ実現できるものはないのか。